つのへび日記

こなやぎのブログです。手仕事、語学、短歌、読書や映画など。

「する親切より、しない失礼」(2/1追記)

Gunosyに登録しているので、時事やら面白ネタやらライフハック系記事やらのおすすめが毎日メールで送られてきて、それを読んでいるのですが、さっき目にしてしまったよそ様のライフハック系ブログ記事にモヤモヤがとどまるところを知らないので、止まりどころを知らすために書きます。

記事の主旨は、ライフログ系アプリであるエバーなんとかの使い途として、人からの頂き物/人への贈り物を記録しておきましょうという提案でした。それはまあそれとして(勝手にやっていれば)いいと思うし、贈り物に関しては、誕生日や記念日などの恒例ごとならば、以前贈ったものと重複しないための工夫として覚え書いておくことは、 いくらかマメな人ならやっていることだろうし、目新しさはないにせよ、実際有効だと思うのです。

しかし頂き物の記録をつける理由として「お礼は一回言っただけでは足りないものもある。記録しておけば、顔を合わせるたびに感謝の気持ちを伝えることができるし、人間、ありがとうは何度言われても嫌な気持ちはしないものです。」などとあって、あー…こういう人っているんだなあ、いやむしろ世の中けっこうこんなひとだらけなんだろうなあ、真ん中以下は皆さん偏差値50以下だしなあ、と世の無情がそら恐ろしく、一言でいうとドン引きしましたというやつです。

頂き物の記録をつけるのもまた個人の自由なのでそれはいいとして、仮にその趣味をブログで披瀝するならば、私の考える模範解答は「お礼を幾たびも申し上げることで、人に感謝する自分というものの気持ち良さに酔いしれることが出来るからです、つまり自己満足です!みんなももっと僕に感謝して!」なのですが、ライフをハックしたい人のポリシーとはあまり相容れないかもしれませんね。

私が恐ろしいと感じたのは、自分がされて嬉しいことは人にしてももちろん喜ばれるはず、一般に善とされることは何倍にしても善たりうる、ということどもを信じて一ミリも疑わない思考の持ち主、が小学生などではなくて社会に出てふつうに生活しているという、日常のうちに薄々は感じていた現実を目の当たりにしたからです。この人だけたまたま狭い世界で生きてきたんだな、と出来れば思いたいですが、それは現実逃避が過ぎるかと。

今挙げたテーマにたいして具体的に反駁するならば、世界には何回もお礼を言われることを嫌がる文化があります。その国の習慣では、お礼を言うというのは心理的距離がある証拠だそうで、家族同士でありがとうを言い合うのは変、という感覚すらあるので、以前のことを何度も蒸し返すように礼を言う日本人は、彼らにとっては奇異であり、決まり悪いとのこと。というのは中国の文化ですが、きっと少し調べればこういう差異は各国各地域でいくらでも存在すると思います。

なんにせよ、思い込みは恐ろしいなあ、自分のためということに無自覚な善行はもっと恐ろしいなあ(つまづいたら際限なく相手を責めることができる)、そういう押し付けを励行するくらいなら、「相手はそうは思わないかもしれない」を常に念頭に置いて、自重していた方が賢明だなあ、というようなことを考えて、浮かんだ言葉が今日のエントリのタイトルなのでした。語呂はすこぶる悪いけど。
おしまい。

<追記>

Evernote

Evernote

最近はメモの大部分をアナログツールに移管気味で、ブックマークとしての使い方が主になってますが、一時期は何かとノートしてたし、今も一応使ってます。
アプリ自体はわりと好きだし、各人好きなように使えばいいと思ってます(くどいけど)。

この記事をアップした後でしばらく考えていたら、「ありがとうは何度言われても嫌な気はしないものです(ニッコリ)」に対するイライラの正体は、『暮しの手帖』を読んでいて「暮しのヒント集」で自分と相性悪いフレーズが目に入った時のイライラと同種のものであると気づきました。



botをざっと見たら実用的な家事ヒントも多かったけど、本誌のこのコーナーはここ二三年かな、もっと前からかもしれないけど、自己啓発(しかも「靴磨き系」の精神論)成分多めな気がして、変なフレーズが目に入ったら無駄にいらいらするから、すっかり読み飛ばす習慣がつきました。自分の一日の処し方くらい自分で考えながら生活してますよっと。

すっかり別冊商法になっちゃったのもこの雑誌から遠のきつつある理由のひとつ。