つのへび日記

こなやぎのブログです。手仕事、語学、短歌、読書や映画など。

書き言葉を褒められて考えたこと

4か月半経過、現在のレベル

中国に住んで4か月半ほど経ちました。

現在の会話レベルは、正直あまり高くないと思います。まだ頭で結構考えちゃうし。
 
出来ること:
  • 基本の挨拶や数字などはぱっと出てくる
  • 簡単な世間話ができる。天気の話とか、「今日はメガネなんですね」とか。当たり障りない相づちを打ったりとか。
  • 自分の希望(あまり複雑でないこと)を伝えることができる。町の食堂で注文したり、お会計呼んだり、食べきれなかった分を包んでもらったり。ファーストフード店でセットのドリンクを変えたり、「まだお釣りもらってませんけど」って言ったり。
  • あまり訛りがきつくない普通話で、はっきり話してもらえると聞き取れる。
  • 簡単な道案内ならできる。
こんな感じです。
つまりこれ以外は全然まだまだです。相づちも、もう少しバリエーション増やしたいんだけどなかなか。
もっと冗談を言ったり、社交辞令を言ったり、こだわりや自分の思考について語ったりとか、人間的な会話を中国語でしたいのですが、この辺はもっぱら相手頼みなのです*1。もともとそこまでおしゃべりな方じゃないし、そもそも日本語ですら冗談とかあまり言わないからな…(言い訳ですが)
 
あと、道案内と書きましたが、とにかくこちらの人はおしゃべりなので、ガンガン他人に話しかけます。なので月に2~3回くらいは道を聞かれます。みんなおしゃべりな上に行き当たりばったりなので、いろんな人に道を尋ねながら目的地を目指すって感じです。あとは、Baiduの地図機能があまり正確でないというのもあると思います…。
 
今のところ、ちゃんと道を教えることが出来たのは半分くらいです。相手の目的地を一回で聞き取れて、なおかつ自分が知っている場所であるのがそのくらいということです。
何となくマイルールとして、一度で聞き取れなかった時は「ごめんなさい、知りません」と答えてます。何回も聞き返して結局知らない場所だったりしたら時間と労力の無駄だし、申し訳ないので。上記の通り、相手はいろんな人に聞くので、私が会話を早く切り上げるほど、早く正解にたどり着けますから。
 
前置きが長くなりましたが、ここから本題です。
 

なぜか書き言葉を褒められる

そんなわけで、私の会話レベルは全然へなちょこなので、スピーキングについてはめったに褒められることがありません。短文ならまだソツなくいけますが、例えば道案内にしても、私がたどたどしく説明しはじめたら、相手は明らかに「あちゃー、外国人に聞いてしもた!」みたいな表情になりますし。道は知ってるので最終的にはお礼を言ってくれますが。
ただ、前から書き言葉は結構褒められることが多いなーと思ってました。
 
私は中華SNSであるところの微信(Wechat )やQQを使っていて、友人とショートメッセージのやりとりをしたり、時々日記を書いたりしているのですが、「中国語の文章上手だねー」「上達したね!」とか「頑張ったんだね!」とかよく言われます。もちろん、私もお世辞を額面通りに受け取るほどばかではありませんから、「まだまだだよー、ありがと」と流してました。
 
が、先日友人が別の友人に「こなやぎさんの書く文章は○○さんよりずっと上手い」と話しているのを聞いて、なんだと!?と思いました。
○○さんというのは、彼らの共通の友人で、物凄く流暢に中国語が話せて、HSK6級ホルダーの、在中歴も長い日本人の方です(私は会ったことがない)。
図々しくも「何でそう思うの?どの辺が?」と友人に聞いてみたところ、「何というか、整っていて、自分にも書けないような上品な中国語を書いてる」という答えが返ってきました。
 
こ、これは!見たことあるやつだ!
 
このS先生には私自身いろいろお世話になったが、留学に際しても推薦状を書いていただくという光栄に浴した。推薦状をお願いにあがったとき、「なに、他の先生方がロシア語と英語で書いた? それでは僕はドイツ語で書いてあげましょう」と、いとも気軽に引き受けて下さった。(中略)
留学先のプラハ学生寮でたまたま机の上にあったこのコピーを見たドイツ人の博士課程の学生がこの推薦状のコピーを見たときの言葉は、今でもよく耳に焼きついている。
「ふーん、見事なドイツ語だね。僕ももう一〇年もしたら、こういう風にうまく書けるようになるかな。」

外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)

外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)

わが枕頭の書、千野栄一先生の『外国語上達法』序盤に出てくる、「語学の神様」S先生のエピソードです。

本書ではさらに続けて、「S先生がポーランド語で書いた葉書を見たポーランド人が『どうしてこんな完璧なポーランド語が日本人に書けるのか。全体が文体論的に統一されてるところが立派だ』と絶賛する」というエピソードも紹介されています。他にも、S先生の警句は本書の随所にちりばめられています。主人公といってもいいかも。

 

そんなS先生のようなことを言われるなんて!と、ここまで読まれた方は「けっ、自慢乙」と思われたかもしれませんが、私は友人のコメントを聞いて、いまいち腑に落ちませんでした。

文法学習、バンザイ!

もし私が日頃から並々ならぬ努力をしていて、文法項目にも全部精通していて、反語とか音韻とかのレトリックも使えるのであれば、友人のコメントに対して「やってやったぞ!」と素直に喜べたはずです。
でも現実にはそうではなく、私はどう盛ってみてもせいぜい「初級者に限りなく近い中級者」で、知らない文法事項もまだたくさんあるし、韻とか踏んでないし、基本に忠実に書いているだけなんです。
要するに、自分のレベルの低さは他ならぬ自分が一番分かっているんですよね(威張ることではない)。
 
それが、なんでこういうことになるのかな?と少し考えてみたのですが、やっぱりテクストに基づいた、文法中心の学習というのが大きいのかなという結論に至りました。
 
もちろん、S先生が過大評価されていたのでは?などという気はさらさらありませんが、今はあまり人気のない、日本人が外国語学習のために採ってきた従来のやり方って、まさに正攻法だったのではないのかな?と思ったのです。
 
最近の外国語学習のトレンドは「会話中心」で、「ネイティブと(教室なりスカイプなりで)直接お話し」できて、「すぐに使える」「生きた」外国語を学ぶ、みたいな傾向がありますが(ちょっと偏見入ってるかも)、私はやっぱり一人で、自分のペースでやるのが好きです。ネイティブとの会話も勿論大切だと思いますが、あくまで二階建て部分というか、基礎をしっかり作った上での腕試し、というスタンスじゃないと却ってもったいない気がして。
 
以前の知り合いで、「私、座ってお勉強とか向いてないから、もっと会話とかやりたいんですよねー!」という人がいましたが、それにしたって文法は大事だよとツッコミたくなったものです。彼女は英語を身につけたいと言ってたけど、今はどうしてるかな。
私がインドア派でいらんことしゃべるの嫌いというのを差っ引いても、やっぱり座学とか理論体系の習得とかって大切だと思うわけです。Duolingoにしても、単語を覚えたり、発音やリスニングを鍛えるのと平行して、問題は文章主体で、格変化などの文法を繰り返し定着させますしね。
文法ってなんだか嫌われますが、せっかくいいパーツをもらっても、組み立て方が分からないとかっこいい道具になりませんよね。しかも同じようなパーツだけど言語によって取り付ける場所が違うよ、とか、この言語だとこれは使わないよ、とか、面白すぎるではないですか。
 
そんなわけで、たいそう長々と書きましたが、今回このような身の丈に余る評価を受けて複雑な気持ちになった反面、今までやっていた勉強方法がこういう形で効くんだ、となんだか違う意味で嬉しくなった次第です。テクストや方法論を大事にすると、こういうところで効くものなんだ。まるで自分の教養であるかのように、ひびいてくるものなんだと。
うおー、文法偏重上等だい!一生スノッブ宣言だ!夕日に向かって走れー!

*1:最近、日本語が堪能な友人が何人か出来ました。あまりに堪能なので、つい日本語で話してしまい私のレベル上げにならないほど(また言い訳)