つのへび日記

こなやぎのブログです。手仕事、語学、短歌、読書や映画など。

私が外国語学習に向いてない理由(そして、それでもやる理由)

語学についてちょいちょい書いているこのブログですが、じつは自分は外国語の学習に不向きだなあと、結構、つねづね思っています。

現在の留学生活中にも感じているし、今回の春節期間にもつくづく思いました。

 

千野栄一先生の『外国語上達法』で、語学の神様・S先生が、千野先生から「会話に大事なものはなんでしょうか」と聞かれて「いささかの軽薄さと、内容」と答える場面があります。

 

いささかの軽薄さ。これが私にはとても難しいなあと感じます。日本語の会話でそれを実行することが、そもそも苦痛なのです。出来れば必要なこと以外話したくない。だから相手の情報も、必要以上には聞き出したくない。端的に言って、ほかの人の内面やプライベートにあまり興味がないのかもしれません。

 

「軽薄な会話」で口慣らしをして、重要な会話で力を発揮するというのが本来の外国語の、いや、ひいては「言葉を使った」コミュニケーション全体での作法なのでしょうが、前者がどうにも苦手なので、全体的にも進歩しません。さすがにこの国に来たばかりの時に比べると能力は上がっているとは思いますが、複雑なことは言えないし、短文短文だし、ぜーんぜんだめです。

 

ただし、私は会話において「ネイティブに間違われるほど上手くなる」という目的は早々に捨てました。どんなに発音が標準的で、発話が流暢であっても、対面の会話では外見で外国人だと見破られ、そのように扱われてしまうのです(ちなみにその点にまつわる通り一遍の形式的な雑談ももちろん心理的には苦手です)私はそれを、スターバックスで見かけた西洋人のおじさんから学びましたそして中国人になりきるには、典型的九州人の私の顔はちょっと濃すぎるみたいです(一度「新疆の人?」と聞かれなんとなく悪戯心そうだよ!」なりすましたことはありますw)

 

「会話が言語のすべてではないんだから、別にいいじゃん! 」こう言う人がいれば、私は全力で同意し、またいくらか安心するかもしれませんが、残念ながらそういう人はほとんどいません。むしろ会話能力というのは世間一般の「外国語学習者」が何よりも必修とされているものであり(「○○語ができます」というと「じゃあペラペラなんですね?」と返ってくるのが世間です)、外国語学習の他者評価において圧倒的に減点方式を取られる項目であり、ほかが出来ていても「ペーパーは出来ても会話が全くダメ→だから(彼/彼女/某国の人)の外国語能力はダメという結論付けがなされます。某国の英語教育についても、よく言われますよね?

というわけで、私の、昨年末のHSK5級の8割強という(自分では会心の)得点も、現状、「でもその割には話せないよねをみちびくマクラにしかならないというわけです。

 

「会話が言語のすべてではないんだから、別にいいじゃん! 」私は内心、そう思っています。もし外国語学習の終着点が会話しかなかったら、私は語学なんてやってないでしょう。苦労して嫌いなことをやるために勉強するなんて、面倒くさいから。

「苦労は買ってでもする人に売れ!」私の好きな言葉です。インターネットで拾いました。

 

もちろん、前述のとおり、周りは無口であることを(なぜか)良しとしてくれません。留学=会話なんて誰が決めたんだ 私は日々中国で生活し中国語の本やニュースを読みSNSにそれらの感想や近況などを書き文法の仕組みやコロケーションや成語に面白味を感じいくつかの生活に必要な問答をして、それである程度充足を感じている。それなのに「もっと(軽薄で、中身がなくて、あってもなくてもいい)会話をして、会話能力を上げよう」というようなことを言われるのです。うんざりです。

 

あまつさえ、遠からぬところに非常にそれがお出来になる方がいらっしゃると余計に鬱陶しいwこちらはハナから目指す気もないのに、某人はこんなに話せる、ついてはこんなエピソードがある、あなたも某人みたいになるには云々、などと、大きな声では言えませんが、余計なお世話なんでよねー!!はい言っちゃった!

「会話だけならコジキでもできる」とは、夫から教えてもらった某教授の言。性格悪いですが、この言葉にいくらか慰められ、また励まされています。(うわ、文字にしたら本当に性格悪いな)

 

ここまでひとしきり、負け惜しみのような愚痴のようなものを書き散らしましたが、誰に何を言われたというのでもなく、いま現在で自覚出来ている範囲での、自身の弱みというのをアウトプットしてみたくなった次第です。

 

アウトプット。外国語学習のひとまずの目的地としての、この行為の大事さは、もちろん理解しています。いつかは今こうして書いている内容や、このブログの他のエントリもすらすら中国語や他の言語で書いてみたい。そして、(必要に迫られれば)それらを雄弁に説明できるような会話力も身につけたい。でも私はそれらの能力を、急いで優先的に習得するよりも、十分にインプットしたあとで、コップの水が溢れるように、外に出したいんです。場数が大事だというのはさんざん身を持ってわかっていることですが、そのうえで、ゆっくり仕上げたいんです。言い換えれば、私が身につけたい会話能力というのは、そのようにしてでないと仕上がらない種類のものだと信じたいのです。

 

「いくつもの言語を知れば知るほど、人間は大きくなる」

この『外国語上達法』で紹介されていたチェコのことわざを、私は信じています。私が外国語を勉強する理由は、見かけやしくみのまるで違う道具の使い方や特徴を知ることで、わくわくしたり、驚いたり、ある意味諦めたりする、そのことが楽しいからです。思考は言語を超えないのだから、言語が同一でない限りほんとうに分かり合える日は来ないのだ(もちろん、同じ言語の話者同士でも諍いはあるのだから当然のこと)そう思うと寂しくもありなんだか安らぎもするのです。そして、このことに自ら気付けただけでも、私はいくらか満足しています。

 

だから、周りの無責任な「かくあるべき」をこれからも受け流していけますように。

せっかくある程度の強制力のある教育機関などから解放された大人の学習なのだから、好きにしよう。愚痴めきましたが、そのような決意表明としても書きました。おしまい。

 

外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)

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私の幸福論 (ちくま文庫)

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