早川書房が時々開催してくれる電子書籍半額セールでは、それまで気になっていたものをつい色々と買ってしまう。
レイ・ブラッドベリのことは、何となく「タイトルがどれもおしゃれなSF作家」みたいな漠然としたイメージしかなかったが、読書猿氏の『独学大全』で紹介されていた2冊が気になっていて、いずれもセール対象だったため購入した。
…というのが3ヶ月前で、今週ようやく読みはじめることができた。いざ取りかかると、予想よりも長くなかったというのもあり(古典的名作と名高い作品は長篇に違いないという先入観)、2日で「訳者あとがき」までたどり着いてしまった。
短い感想はこちらに書いた。
bookmeter.com
訳者あとがきにもあるが、旧訳でのガイやベイティーの職業は「焚書官」なのだそうだ。新訳では「今や家々は完全に防火仕様となり、そのFiremanという職業は火を付ける人たちをこそ指す」という設定を踏まえて「昇火士」としてある。これなら日本語の消防士と音も似ているので、原文のニュアンスを損なわない。
昇火士ガイの日常は隣家に越してきた少女クラリスによってさざなみ立ち、老学者フェーバーとの友情、上司ベイティーとの対立そして逃亡、グレンジャー率いる「生き残った書物たち」との邂逅、そして終幕まで一気に物語は進む。クラリスもフェーバーも、そしておそらくグレンジャー達さえも、ガイと出会い、役目を果たすとやがて舞台を退場する(だろう)。でも消えてなくなるわけではない。本文より、ガイのことば。
見たものがおれのなかにはいるときには、そいつはまるでおれじゃないが、しばらくたって、はいったものがおれのなかでひとつにまとまると、それはおれになる。
私は、ガイが通過し、またガイを通過する彼らは、みな書物の象徴なのだと解釈した(クラリス=破天荒な新鮮さをもたらす文学。フェーバー=教え諭し、導くバイブル。グレンジャー達=世界を収集し俯瞰する、事典や目録。平凡な読みだとは思うが、一応書いておく)。だが、ベイティーはどうだろうか。
半端に本を読んできた自覚のある人は皆そうなのかもしれないが、『華氏451度』ではベイティーの哀れさがひたすら身につまされる。彼は似非インテリであり、本を引用することで本を征服した気分になる傲慢屋で、フェーバーやグレンジャーになれなかった弱い人間でもある。それゆえ執拗に「持たざるもの」ガイに対して、自らのなけなしの所有物(シェイクスピアをはじめとする古典からの夥しい引用)を武器に攻撃し、ついに反逆にあう。そういう生半可な俗物が権力を握っているというリアルな醜悪さが、この物語の凄味をますます増している。
そしてそうした態度への1つのアンチテーゼもまた、物語のなかで親切にも明確に示されている。書物の守護人のひとりであるグレンジャーのことば。
われわれがただひとつ頭に叩きこんでおかねばならないのは、われわれは決して重要人物などではないということだ。知識をひけらかしてはならない。他人よりすぐれているなどと思ってはならない。われわれは本のほこりよけのカバーにすぎない、それ以上の意味はないのだからな。
思った以上に心の深いところへ迫る物語であり、ジャンル小説という位置付けにくわえ比較的最近の書物にもかかわらず、ここまでmasterpieceのような扱いを受けることの理由がわかった気がする。またこんど、最初から読み返したい。とりあえずは、同時に買ったもう1つのブラッドベリ作品『歌おう、感電するほどの喜びを!』を続けて読もうとおもう。