『ペリーヌ物語』全53話を観たアニメ初心者の感想と考察
(最終更新日:2022/8/27)
ここ一ヶ月くらい、すっかりはまって毎日観ていたアニメ『ペリーヌ物語』。
テレビ放映は1978年で、私が生まれる6年も前のことだ。
世界名作劇場、の前身の「カルピスファミリー劇場」という枠で、翌年の『赤毛のアン』からおなじみ「世界名作劇場」となったらしい。
『ペリーヌ物語』はそのような、いわば「日本アニメ黎明期」に属するような少し昔のアニメなのだが、全「名劇」シリーズ中で一番好きという人も多いという。
以下の文章では自分の語りたい欲に任せてがんがんネタバレをしていくので、前情報なしに鑑賞したい方はぜひ以下のリンク(第1話)から観てください。
全53話!?とひるむのは最初だけで、特に後半からは飛ぶように時間が過ぎてしまう。
私はAmazonプライムビデオで視聴したが、YouTubeでも公式で全話視聴可能なのでぜひ。
→2022/8/27現在、1話のみ視聴可能。
目次
プロローグ(世界名作劇場のこと)
Amazonプライムビデオで「名劇」系列作品をいくつも観られるようになっていると知って、最初はストーリーをまあまあ知っている『赤毛のアン』に手を出した。
しかし共感性羞恥というのか、通知表に「落ち着きのない子」と書かれていた当時の記憶の断片が蘇ってきてむずむずして落ち着かず、それでもマリラの突っ込みが面白いのでしばらくは観ていたが、予告で「次回、初めての学校へ~」ってとこで、うわっギルバート殴るやつだ、と思って観るのをやめてしまった。
石板で殴るとかいくら何でも怖すぎ。
マリラ風に言うと「あたしはそういうことはしてほしくはないし、見たいとも思わないね」といったところだ。*1
そもそも「世界名作劇場」には親しんでこなかったので全体的に知識が乏しく、唯一『七つの海のティコ』だけはリアルタイムでTVで観ていた記憶が確かにある。
学校図書館の『シートン動物記』や『ファーブル昆虫記』に夢中だった生き物大好きっ子として熱心に観ていたはずだったが、今サムネイルを見ても、女の子とシャチ、どっちがティコだっけ?というレベルでストーリーは何も覚えていなかった*2。
ちなみに『ロミオの青い空』はつい先週まで金髪の方がロミオだと思っていた。
いずれきちんと鑑賞したい。
きっかけ
そんな私がなぜ『ペリーヌ物語』という隠れた名作を引き当てることができたかというと、以前ひとから「あなたはオーレリィみたいだ」というようなことを言われたから。
それ以来、いつか機会があったら観てみようと思っていた。
後述するが、オーレリィというのは物語後半からの主人公ペリーヌの仮の名であり、オーレリィとペリーヌは同一人物なのだけど、あくまで私が似ているのはオーレリィらしい。
実際の私はこんなにまっすぐないい子でもないけれど、ちょっと生意気なところとか、何でも自作しようとするDIY精神旺盛なところは確かに似てる。
顔もちょっと似てる。
もちろん顔はペリーヌ期からずっと同じなのだが、彼女の自立心とかサバイバル能力だとか、それから年相応にいたずらっ子なところだったりとか、それまでずっと「しっかりした娘」だったペリーヌに色々な面が表れるのは、たしかにオーレリィ期以後なのだった。
ストーリー
『ペリーヌ物語』は貴種流離譚とも言えるし、立身出世のストーリーでもある。
快活な少女ペリーヌは父の生まれ故郷を目指し、優しくて美人な母、犬のバロン、ロバのパリカールとともに馬車で旅をする。
旅の途中で次々と大切なものを手放し、うしない、ほとんど着の身着のままで故郷のマロクール村にたどりつくものの、今は名乗り出る時ではないと悟ったペリーヌはオーレリィと名を変えて、祖父の経営する繊維工場で働くことに。
そこで自分の力で生活をし、周囲の人の善意や運にも助けられつつ仕事でも取り立てられ、次第に厳格な祖父の心を開いていく。
善行をすればかならず報われるし、人を愛すればその人も愛してくれる。
そんな性善説にもとづく道徳的な物語でもある。
道徳的な物語というのは大抵退屈でつまらないものだけど、『ペリーヌ物語』はちがう。
構成
全体の尺でみれば、マロクール村への到着を境目として「ペリーヌ編/オーレリィ編」の前後編にちょうど分けられるし、ストーリーの起伏でいえば、ボスニア~パリの「ヨーロッパ旅編」、パリ~マロクールの「フランス旅編」、そして「マロクール編」の3部作とも言えそう。
と思っていたら、エクトール・マロの原作小説『En famille(アン・ファミーユ)』ではパリ以降のストーリーしかなく、ヨーロッパ旅のストーリーはアニメオリジナルとのこと。
それを踏まえて観ると、前半の旅物語が後半に比べて、特にストーリーが大きく動かずまったり進行なのも納得できるというもの。
地理と文化
物語はペリーヌ母娘がボスニアを発つシーンから始まるが、そこから向こう数話はしばらくボスニアだ。
何しろボスニアは広いし、彼女たちはロバの馬車で旅をしていて、ロバにとって大変な道は馬車から降りて歩いたりもしている。
私はヨーロッパの地理にからきし疎く、また全然記憶にも定着しないので一時期白地図を買って覚えようとしていたくらいなのだけど、『ペリーヌ物語』のおかげでヨーロッパに関しては以下いくつかの知識を得た。
- ボスニアはものすごく大きい
- イタリアとフランスは隣接している
- スイスを通るアルプス越えは近道だけどめちゃくちゃハード
特に最後のアルプス超えは強烈な印象だったので、絶対に忘れないと思う。
イタリアの手前あたりの宿屋でひんぱんに供されるシチューのようなものはグラーシュかな、とか、高地はやっぱりヤギのミルクなんだ、とか、食べ物や風景、街並み、人々が飼っている家畜などを見るのも面白い。
前半はストーリーの起伏に乏しい代わりに、それらに注目できるという良さもある。
産業と労働の歴史
ペリーヌがたどりつくマロクール村はすでに産業革命の影響下にあって、村の住人は自営業者か、そうでなければ工場の勤め人のいずれかだ。
作中でイギリスから最新の機械を輸入し設備増強をしていることからも、今後も事業の拡大を図る先進的な企業であることが分かる。
急速な工業化と事業規模拡大のために、労働環境の整備や福祉の充実は二の次であり、やがて小さな悲劇をきっかけに工場主でありペリーヌの祖父ビルフランは変節をせまられる。
一代で大事業を築き右肩上がりに利益の追求をしていた彼が、ペリーヌらによって福祉の概念に出会い「ノブレス・オブリージュ」を体現するに至る過程も終盤のひとつのみどころで、大人がこの物語を楽しめる所以でもある。
ファミリー劇場の名はだてじゃない。
ちなみにこの工場は原作発表当時に実在した繊維会社がモデルとのこと。
当時小説のモデルになることは、マーケティング手法として有用だったのかも、などと想像する。
キャラクター
ヨーロッパ旅編では、一路フランスを目指して旅を続けるペリーヌや母を誰もが好きになり、多くの人が力になろうとしてくれるし、ピンチにも救いの手が必ず差し伸べられる。
みんないいひとだけど、何しろ旅路の出会いなので登場人物はかなり流動的だ。
しかし定住することで人間関係は濃密になり、人物(キャラクター)描写はいっそう深くなる。
パリ編ではシモン荘の人々やルクリおばさんなど癖のあるキャラクターが登場し、彼ら自身の生き方を変容させるほどにペリーヌと深く交流する。
そしてオーレリィとしての生活が始まるマロクール編では、友人ロザリーとその家族、工場の技師ファブリさんなどの絶対的な「善玉」キャラと、工場長のタルエル、ビルフランの甥テオドールという愛すべき「悪玉」キャラがそれぞれの存在感を示している。
そのためにストーリーの輪郭や起伏がより際立ち、見るものをぐいぐい引き込む。
前述の通り、ペリーヌ=オーレリィ自身のキャラクターの魅力も多彩さを増す。
旅の空とマロクールをつなぐ存在であるサーカスの少年・マルセルも(原作ではほんの少しだけ登場する人物を大幅にふくらませた、ほぼオリジナルキャラらしいが)重要なキャラクターである。
前半はにぎやかな旅のお供として、パリではペリーヌの心を支える友人として、エンディングでは彼女の幸せの証人として、それぞれ効果的な使われ方をしている。
言語
「ヨーロッパ旅編」を視聴中の私の一番の関心ごとは、「ペリーヌは一体どんな言語で口上を述べているんだろう?」ということだった。
ペリーヌ一家は、当時珍しかった写真の撮影で路銀を稼ぎながらフランスを目指している。
父亡きあと、ペリーヌが父の口真似で客寄せをするあいだ、母マリはじっと黙っている。
最初は内気な性格のためかなとも思ったけど、おそらくペリーヌはフランス語で口上を述べていて、仏語が母語ではないマリは彼女にそれを任せているのかなと推測を立てた。
ペリーヌたちが旅した地域は主にスラブ語とロマンス諸語の言語圏なので、前者はともかく、後者ならフランス語の口上でも言いたいことは伝わるのかな、と思ったりもする。
マルセルの両親が巡業しているエトワールサーカス団もイタリアからフランスへ旅しているようだが、名前からするとフランス拠点のようだ。
こちらも舞台の進行などはフランス語でやっていたのだろうか。
マリはインド系英国人で、母語は英語である。
ペリーヌの父エドモンはフランス人なので、(後の展開で、マリとペリーヌの母娘間では英語による意思疎通があったとわかるが)家族3人でのコミュニケーションはクレオール的な言語によってなされていたかもしれない。
そんなことを考えるのも楽しい。
多言語な映像コンテンツは大好きなので、ペリーヌが通訳として初めて活躍する回は楽しくて心が躍るし、何回も観てしまう。
音楽
オープニング、エンディングもいいし、劇中のBGMもとてもいい。
長編アニメだからというのもあるのか、何曲ものBGMがふんだんに使われている。
OSTはYouTubeで検索すれば、2枚組CD音源が聴けたりもする(公式のものではないのでリンクは貼りません)。
私はマロクール編で多用される「働くペリーヌ」という軽快な音楽と、ロザリーのテーマ(本編でロザリー本人が鼻歌で歌っていたりもする)がお気に入りだ。
好きなセリフやシーン
『ペリーヌ物語』のセリフは(現代アニメに比べると)ゆっくりしている。
セリフの話者ごとにカットの切り替わりが多いことにも関係しているのかもしれない。時代を感じる言い回しもあるけれど、それにも味わいがある。
写真機どろぼう
とりわけ好きなセリフ、というかシーンはたくさんあるが、前半のヨーロッパ旅編から一つ挙げるなら「写真機どろぼう」の回だ。
いちゃもんを付けてきた同業者のイタリア紳士をペリーヌは理詰めでみごとに言い負かすのだが、その日の夜に母は「あなたがとてもしっかりしているので心配だ」と切り出し、「あの時のあなたは、とても意地が悪かったわ」とたしなめる。
先に意地悪してきたのは向こうだ、インチキ写真屋だなんて言うから、と抗弁するペリーヌに母は「言いたい人には言わせておけばいい、自分たちさえインチキをしなければいいのだ」と諭す。
「あなたには誰からも愛される人間になってほしい、それにはまず自分から人を愛さなくては」とも。
そしてその日の深夜、マリは自らの行動をもってそれを示すのだった。
私はこの時のペリーヌみたいについ正論で人を刺してしまいそうになるし、同業者の紳士たちみたいに劣等感を他者への悪意にすりかえそうになる時もあるから、ここからの一連のシークエンスは何度観ても泣いてしまう。
マリが言いたいのは「女、子供は分をわきまえろ」という抑圧の言葉ではなく、「人にはやさしくしましょう」という普遍的な善性からのメッセージであり、それを彼女は身をもって示し続ける。
パリカール!私のパリカール!
単身パリを発ち、一文無しになったペリーヌは道中で行き倒れるものの、パリカールとの再会によって一命を取り留める。
これも観るたびにいつも泣いてしまう。
会う人みんなに「変な顔の犬」などと言われてしまう気まぐれなトラブルメーカー、バロンが超がんばる回でもある。
パリカールは決して高くはない額でルクリおばさんに買われてしまったのだが、続く回で彼女はそのことへの後悔を口にする。
「パリカールは優秀なロバだから、もっと高く買ってやればよかったと思っていた。だからこうしてペリーヌを助けることは神様の思し召しだったんだ」と。
かくして差額は善意によって埋められ、遅まきながら取引は公平なものとなった。
『ペリーヌ物語』の世界で、善意は通貨と同じ価値を持っている。
終盤ビルフランは、ただのオーレリィだった頃から彼女に優しくしてくれた人々に対してクリスマスの贈り物をするが、ここでも善意と金銭的な価値が交換されている。
これを産業革命以後の資本主義的な価値観へのシフトと見るのはたやすい。
だがルクリおばさんの善意を覚えている私たちは、それが一方通行ではなく、もっと柔らかくひらかれているものだと信じることができる。
善意と健康
『ペリーヌ物語』に2つ教訓を見出せるとすれば、ひとつは「写真機どろぼう」の回にも見られる「人には優しく」、そしてもうひとつは「健康第一」ということだろう。
母マリが病を得てのち、写真師の仕事ができなくなり母娘の財政状況は急激に悪化する。
ペリーヌは一人でお金を稼ごうと機材を持って出かけるのだが、子どもなので誰からも相手にされず商売にならない。
生活や治療のために、父の形見の宝石を売り、親子で暮らしていた家馬車を売り、マリの民族衣装を売り、ついにはロバのパリカールに至るまで大切なものを次々とお金に換えざるを得ず、その過程が本当に恐ろしくぞっとした。
いっぽうビルフランのように、お金があれば困難な手術も受けられ失った健康を取り戻せるひともいる。
だが、それにしたって一定程度の健康があってはじめて、手術ができるという条件付きでもある。
(ペリーヌがマロクール村に到着した頃のビルフランは、目の手術に耐えられる体力がないために盲目のままでいるしかないとされていた。)
やはりひとへの善意と同じくらい、健康もだいじだなと思ったのだった。