つのへび日記

こなやぎのブログです。手仕事、語学、短歌、読書や映画など。

世代交代

三代目です。

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こうして並べると、明らかにこ汚い先代。御苦労さまでした。

鍋つかみという用途上、繊維の焦げなのか、洗っても落ちなくなるんですよね。

洗うにつれて中のパンヤがへたってきて、断熱性が落ちてきたと感じたら替えどき。

 

一人暮らし初期からずっと使ってます。元ネタはもちろんこの映画。

 

 

レオン 完全版 [DVD]

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天涯孤独になってしまった少女マチルダをなんとか慰めようとする、いたいけなおっさん=殺し屋レオン。

 

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こう言い残してキッチンに姿を消します。

そして現れたのは…

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「マ・チル・ダ!」

 

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そんな愛すべき中年男レオンですが、夜は片目ずつでしか眠らないのです。なぜなら殺し屋だから!

最近は見返す事もないけど大好きな映画です。多分生涯で初めて悪役を心底カッコいいと思った作品。ゲイリーオールドマン凄い。

 

去年公開されたジャン・レノの映画は料理人ものだったから、このミトンがどこかで出てきたりしたらにやにやしたのにー、と妄想もはかどる。面白かったですが。


映画「シェフ!~三ツ星レストランの舞台裏へようこそ~」予告編 - YouTube

 

毎日同じ所作をやっていると、料理の中の作業の成分が濃くなってきて、結果めんどくさくなる。その上道具の調子が悪いととどめを刺される。回避回避!今月は平日お弁当率100%達成に向けてがるばんぞ(ひよこ豆)。

アニマルオーブンミット ブタ

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『日本の悲劇』2012年/日本/101分


映画『日本の悲劇』予告編 - YouTube

予告編、一応貼りましたが、あえて見ずにとりあえずじかにご覧になってもよいかと思われます。(個人的には、予告編ナレーションの「なんでも「いい話」風になっちゃう感じ」が嫌で、トレイラーってちょっと苦手。反対に予告編観ただけでなんとなくお腹いっぱいになって観ずに済ます事もしょっちゅう)

 

数年前、同志社大学の小ホールでおこなわれた小林政広監督のトーク+上映イベントを観に行ったことがあって、失礼なうえ勿体ないことにその内容はほとんどあんまり憶えていないのだけど、確かその日じゅう小林監督の過去の作品を何本か上映していて、トークの本題になったその時の新作よりもむしろ、その時上映されていた他の映画にものすごく好みのものがあって、ずっとお気に入りの映画の一本として心にとどめている。

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 椎名桔平柄本明というW主演が好みだっつうだけじゃないのかと言われると、そんな気もしなくもないけれど…。

 

だから、新作が全国公開されたと聞いてものすごく楽しみにしていた。内容からすれば不謹慎なくらいわくわくして待っていた。熊本という土地柄、全国順次公開の単館系映画は待たされているうちに期待値が否応なしにどんどん上昇してしまい、結果として本人としては望まない形の失望を味わったりすることも多々あって、どうにも理不尽じゃないかと思ったりもするのだけど、このたびはもう期待をかるがる上回る作品に出会うことができて、言葉もございません。彼の脚本が好きなんだよなあ、セリフの連なりの妙がたまらないんだよなあ、ということを改めて確認しました。こんな本一生に一度だって書ければ悔いはない、みたいなものを何本も書いていて、気が狂ってしまわないんだろうか。失礼だけど、自分では無上の賛辞のつもりです。

 

失職、うつ、離婚、老親の長期入院、震災、不治の病…と、コントのようなタイミングの良さで一家を襲う悲劇の連なりはシニカルですらあり、その滑稽とも言えてしまう間の悪さがさらに妙な真実味をもって悲哀を誘う。なんだか太宰治みたいだなあと思ってしまった。ただし、も一回ひっくり返ってコメには転じないのが太宰と違うとこ。結果、巧妙なトラだった。

 

カメラはシーンごとに固定され、或るシーンをのぞく全編がモノクロで、それだけに繊細に拾われた生活音の一つ一つ…電話の音、洗濯機の音、やかんの沸く音、咀嚼音、庭を歩くじゃりっという足音、など…が殊更に際立っていた。全てモノクロの方が自分好みではあったけれど、同時に、あらゆる意味で前者のが理に適っている、とも思うので、もう本当に単なる好み。しかしいざその効果を発揮する、幸福感絶頂の回想シーンは、嫁(寺島しのぶ)目線で見るとすでに微かな齟齬が感じ取れたりもして、それがすごく恐ろしい。なぜならこの回想シーンは不二夫(仲代達也)のものであり、再生している彼にとっては一番幸せな記憶なんだけど、それが誰の目から見てもまったく公平な幸福感とは言えない棘、しかもフラグだとは明確に指摘できない様な、ごくごく些細なズレをほんとうに微量に含んでいて(そして現実というのはそういうものなのだ)、しかもそんなシーンを「(彼の)人生のピーク」としてさらっと書いちゃうという、そのことが本当に恐ろしい、と思ってしまった。だって嫁からしたら、あれはものすごい針のムシロだよきっと!

 

もし文学部風の解釈をくわえるとして、悲劇にもし一筋の光明を見出すなら、終盤の激しいシーンを乗り越えた息子が丸くなってむせび泣く場面、あの瞬間彼はあらたに生まれ直したのではないかな、などと思ってみたりもする。生まれ変わった、などという都合のいいものではなく。我ながらくさすぎる解釈だけれども。発話者のわからない電話もたびたびこちらに投げかけられているけど、過剰に物語を与える必要はないか。取られなかった電話はかすかな希望として、抽象的な位置に浮かせておきたいなと思っている。『バッシング』もそうだけど、電話は小林作品のキーなんでしょうか。

 

その家庭用電話機もそうだし、不二夫の下町言葉、(見えないけれどたぶん)ちろりでお燗をつけた晩酌、家族の定位置のあるダイニングテーブル、それらの消えゆく色々をも、悼んでいるのかな。と、エンドクレジットを見ながら思いました。時事的な社会問題のみならず、その意味でも、ある時代を麻酔なしで抉り取ったような、そんな映画だと思います。

 

もう今年の傑作映画、観ちゃったな。園監督には大変申し訳ないけれども…。


映画『地獄でなぜ悪い』予告編 - YouTube

 

『日本の悲劇』、少なくとも来週まで(~10/25)はDenkikanでやるようです。

パンフレットの監督ノートに書かれたクランクインに至るまでの(金銭的な)あれこれを読んだ今や、ひたすらに興行の成功を願ってやみません…。

映画『日本の悲劇』公式サイト

『風立ちぬ』2013年/日本/126分

もう10日以上前の話になるのですが。
友人から試写会のお誘いがあったので、ありがたくご一緒させていただきました。
ジブリ映画は『千と千尋の神隠し』以来だと思います。たぶんジブリ映画を見ていない日本人のワースト一割には入ると思う、そんな人間です。ナウシカもハウルも魔女宅もオチを知りません。下手したらストーリー知らないかも。

気付いたことなんかをちょこちょこ書いておこうかなと思い、別にツイッターでも良かったんですが、あくまで「清貧の書」アカウントであり、最近なんか私物化してる感がなきにしもあらずなので、こなやぎの個人的なことがらについてはもう少しこのブログを活用しようと思います(という何度目かの決意)。140字以内に収めようと苦しまなくてもいいし。

映画(および元になった宮崎駿の漫画)のあらすじやらキャストやらについてはこちら宮崎駿版『風立ちぬ』の主人公のモデルとなった堀越次郎についてはこちら(どちらもウィキペディア)に詳しいので、割愛。

上のウィキペディアによると、今回駿は初めて大人向けのアニメということで作ったそうです。
大人のためのアニメなんて無い、というスタンスで今まで一貫していたところが、<<武器や兵器にわくわくする少年駿VS反戦の大人駿>>の折り合いを付けろと言われたとかなんとかで。

とにかくみんな煙草をよく吸うなー、というのが、一番印象に残りました。主人公も、主人公の友達も、もくもく吸う。そこはむしろプラスでした。私には。
「大人の映画って触れこみだから、教育的配慮なんてしないよ」っていう開き直りが見えて、痛快。
実際、社交サロンとしての喫煙所の役割、という当時の文化をきちんと作品に表わしているのだから、ここは評価してもらいたいなー。
作品では軽井沢のホテルでしたが、昔の豪華客船の喫煙室とか、贅沢で素敵です。

ただ、細かいところかもしれませんが、主人公の男性とヒロインに、それぞれ手紙を書くシーンがあり、その字がどちらとも雑(むしろ同じ筆跡?くらい適当)だったのがどうにもいけませんでした。
主人公もヒロインも身分賤しからぬ子息子女で、こんなザ・教養!って人たちがこんな小学生みたいな字書くわけないだろ…と思ってしまったら、なんかそれ以降、醒めちゃいました。残念。
同じ映画とはいえ実写だしジャンルも全然違うので頓珍漢は承知なのですが、内田けんじ監督の『鍵泥棒のメソッド』が車から小物からそれぞれのキャラクターに合わせて三者三様に設定し、筆跡もそれぞれ筆耕業の方を用意していた(堺雅人だけは自筆だったかな、確か)というようなこだわりを思い出すと、ちょっと惜しいなあと思いました。

酷評らしい声優は、私は特に気になりませんでした。
なんか、ジブリ映画=棒読みみたいな先入観があるようで、まーこんなもんだろ!と思ってました。
西島秀俊だけは、顔がもうモロに「中に西島秀俊がいるよ!」って風貌だったのですぐにわかりました。
エンドロールで、野村萬斎がイタリア人役で出てたのを知って驚いたけど、大仰なセリフ回しの感じとか、納得。イタリア語もちょっとしゃべってましたね。巻き舌も上手いとは。
ストーリーは綺麗でした。
ただ、宮崎駿は「初めて自分の映画を見て泣いた」とか言ってるらしいですが……それはちょっと、大丈夫かなーと心配に…。

長いしまずい感想ですみません。でも、自分では選んで観にいく映画じゃなかったので、こうして機会があってよかったです!
ジブリファンの方がこれを読んで不快になられたらすみませんが、こういう視点もあるということで、面白がっていただければ幸いです。私にはいい体験でした。誘ってくれたKさん、ありがとう!

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『恋の罪』2011/日本/144分/

園子温の映画は『愛のむきだし』でがっちりハマってしまって以来『紀子の食卓』『自転車吐息』『冷たい熱帯魚』と観てきた。「園子温の映画だ!」というだけで胸騒ぎがするようなどぎつい個性の持ち主は、今撮り続けている映画監督にはそんなに多くないとおもう。実写版かゆるふわ映画かもしくはその両方、がのさばる日本映画のただなかにあって、フルスロットル、ハイテンションの怪作を次々世に問う、モンスターのような監督なのである。

あらすじは割愛する。いわゆる「東電OL殺人事件」にインスパイアされたとあるが、文字通り着想を得ているにすぎず、登場人物の女性も「大手企業のエリート」ではなく、有名大学助教授、セレブ妻、刑事という「持てる人々」に置き換えられている。その上で刑事=吉田和子水野美紀)が狂言回しの役を負って、事件の究明とともに春をひさぐ女達や自身の闇に対峙するのだが、そういったシリアスな面もさりながら、セレブ妻=いずみ(神楽坂恵)が貞淑な深窓の妻から明るく溌剌として堕落していくさま、彼女に奇妙な思慕をいだかれ「お前はきちっと堕ちてこい!私のとこまで堕ちてこい!」とスパルタ指導する助教授(夜は売春婦)=美津子(富樫真)の狂気がかった演技など、見どころも笑いどころも多い。
それから園作品をつらぬく「家族」というテーマが今回も登場しており、それがサスペンスとしての物語の有りようを複雑にしている。

この映画に関するインタビュー記事で、園子温は「女性目線で撮った」としばしば語っているのだが、私はきわめて男性的なアプローチだったと感じた。かつて『紀子の食卓』で自分が処女であることを気にしていてなおかつ「男の子になりたい、自分の女っぽい部分が嫌だ」と言う主人公の、あまりにリアルな二律背反の感情に私は愕然としたが、それに比べれば随分デフォルメされている印象を受けた。以下がその理由だ。

彼女たちが金も地位もありながら売春に走った理由は作中では明確には語られてはいないが、繰り返し引用される詩がある。

帰途   田村隆一

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるのか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんか覚えるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

「私には私のことが何もわからない!」といういずみに「言葉はすべて肉体を持っているの。肉体がない言葉に意味はないわ」という美津子。
この「自己の意味の探究」「自己(の内面の)肯定」というのはすこぶる男性的だと思うのだ。

例えば、これが女性が撮った女性の映画、それも「春をひさぐ女」の映画ならどうだろうかと考えた時に、蜷川実花の『さくらん』が浮かんだ。
(原作マンガを読んでいないので、以前見た映画のみの印象になるのだけど)
あれは「媚びない、かっこいい、自立した女」を主人公に据え「愛に死ぬ女」「すべてを持ち僥倖を得る女」等の「あるべき美しい女」のテーマ展示のような作品だったと思うが、畢竟「美しい」こそ女性を動かすてこだというある種の真実味というか正直さがあり、個人的には「しょせん女というのはこんなもんだろうなー」というような卑下を否めない。
まあ、花魁というと10代〜20代初めで、かたや『恋の罪』の女性はみな分別ある30代しかも才媛なので、「存在理由を外見(の形容から派生した善きもの)に向けるか内面に向けるか」というのは「スイーツとエリートの思考の差」とも言えそうだが、衣食足りた人間が次に直面するのは自己肥大の問題であり、こと女性であると「自分を認めてほしい」には「自分の女性としての美しさを認めてほしい」も大いに含まれるのだと思う。

例えばこういうシーンがあった。捜査室内、吉田が男性部下と二人で事件について会話している。このとき何ごとかを(セリフ失念しました、ごめんなさい)吉田に問いかけた部下が、「あっすいません、これってセクハラですかね?…」と自らを軽く諌める。小さな間が空く。

事件の舞台は'99年ごろという設定だが、気になったので調べてみると日本でセクハラが取り沙汰されはじめたのは'80年代末で、'89年には流行語大賞になっている。'90年代は後半に立て続けにセクハラを理由にした民事裁判が起こっている。

上記のシーンがこうした時代背景までを孕んでいるというのは考えすぎかもしれないが、ちょうど性差への言及が過剰にタブー視され、抑圧されている頃だとすると、ますます女性の願望は劇中ほど深遠ではないのでは、と思える。そういえば彼女たちと関係する男性はほとんど(AV撮影クルーを除いて)彼女たちの外見を褒めない。ただ対価を払い、事に及ぶだけである。映画としてそこで陳腐なセリフを吐かせては終わりだし、その意味でも奇妙に新しい女性映画だと思う。

園子温は本作を「女性賛美」の映画だとも言っているが、初めて「まったく美醜を顧みることなしに自己を追究する女性」を描いた点ではそうかもしれない。ちょっと褒めすぎの感もあり、その虚構性がこの映画を映画たらしめているのだろうとも思う。そのことは、これを書く前にざっと目を通したネットのレビューに、妙齢女性による「そうなの、女性には裏の顔があるのよ♪ウフッ」といったドヤ顔コメントを散見したことで改めて確信しつつもある。


『恋の罪』公式サイト
『愛のむきだし』公式サイト
映画『さくらん』公式サイト

サイトを見ているとまた『愛のむきだし』が観たくなってきました。2回観たのに。

『悲しみのミルク』2008/ペルー/97分

どちらかと言うと、難しい映画の部類に入ってしまうかもしれない。ただし一般にいう「難解な映画」=構成が複雑であるとか科白や演出の意図が容易に判りかねる、というわけではなくて、説明的な描写をほとんど行わないために物語を完全に掌握しづらいという「難しい」で、だからこの映画はぜひ劇場で鑑賞ののち、パンフレット購入を強くおすすめしたい。といっても、こちら熊本では明後日25日まで、それから山形と東京早稲田が続き、公開は終了のよう。どこかでアンコール上映などが今後もあればいいのだけれど…。

あらすじは以下の通り。ネタバレしますので差し支えのある方はすっぽり読み飛ばして下さい。


少女ファウスタは母から彼女がまだ胎内にいた頃のゲリラ襲撃事件――父は殺され、母は身重のまま凌辱された――の話を聞かされており、そのせいで美しく成長した今なお常にひどく怯え、一人で出歩くことさえままならない。しかも護身のため体内にジャガイモを入れ、それが発芽して彼女自身を傷つけていてもそのままにしている。
その母が死に、同じ集落に住む叔父は娘の結婚を控えており経済的に余裕がないため、手ずから埋葬してしまおうとする。どうしても故郷の村に埋葬させたいと願うファウスタは、費用稼ぎのために裕福な女ピアニストの元でメイド仕えをすることに。発表会が迫っているのに新曲が出来ないピアニストは、真珠一粒と引き換えに彼女の歌を一つ聴かせてくれるよう頼む。
同じ邸宅に出入りする庭師との交流で、故郷の村での楽しい暮らしも思い出し、彼女の心は徐々に外の世界へ開放されつつあったが、ピアニストはファウスタの歌を剽窃し真珠の約束を果たさぬまま彼女を屋敷から追い出す。従姉妹の結婚式の夜、盛装のまま村から飛び出したファウスタは屋敷に忍び込み、彼女の取り分を奪還し、同時に母から受け継いだ呪縛からも訣別する――。

物語はむしろ至って明快。挫折した主人公→外界の変化→主人公自身の変化→悲劇→カタルシス→大団円、とこう書くと王道の主人公成長物語なのだが、先に述べたとおりの徹底的に削ぎ落とされ抑制された視覚表現、無駄(無理)のない科白、ジャガイモや庭の花や真珠などの美しくて象徴的なオブジェの配置、ファウスタの口ずさむさまざまな節回しのアカペラの歌など、ひとつひとつ取っても面白い表現方法が幾つにも重なっていて、ドラマにも小説にも代替不可能な「映画らしい映画」を見た!という思いがした。今年見た中では、『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』以来の感慨。

この映画でもう一つ特筆すべきなのは、劇中で使われている言語。富裕層であるピアニストはスペイン語を、ファウスタなどの集落の人間はケチュア語を話している(らしい)。ファウスタの歌もケチュア語なので、彼女が真珠と引き換えにする最初の歌が、人魚と作曲家の契約を歌ったものであり彼女の苦渋の決断がそこに表われていても(おそらくは)気付いていない。そのうわべのメロディーのみを買い換えたばかりの瀟洒なピアノで簒奪するのみだ。もちろんこうした言語の差異に自分が気付くはずがなく、パンフレットを読んで、こういう鑑賞の仕方ができればなあと悔しがったのみであったが。

ひどく長く書いたが、これは一週間限定上映なんかであってはいけない映画だ、と言いたかった。なんでも東京で大コケしたために後続の地方単館が怖気づいてしまい、どこでも上映期間が短かったらしく、じっさい私自身まだ関西に住んでいた今年夏、大阪でも京都でも都合が合わず泣く泣く見逃してしまい、今週ようやく見ることが出来たのだった。一つの映画の上映がたった一週間というのは、勤め人には大変厳しいスケジュールだと思う。どうせどれやってもガラガラなのだから、ぐらいの開き直りで、中央での評価うんぬんではなく上映館のスタッフが観て佳いと思った映画を多く上映してほしいと強く思った。